emo.

「好き」と「素敵」を忘れない為の、私のためのポエミー備忘録。

黒いローファー、白いローファー

 

先日、4年目の──大学最後の定期演奏会のために、高校時代に愛用していた黒いローファーを引っ張り出した。

履き古されて、踏みつければギュッギュッと間抜けな音の出るそれは高校二年だか三年だかに買い替えたものだ。特に思い入れはない。

 

当時流行っていた房飾り付きのオシャレなやつだとか、茶色いローファーだとか、そんなものには目もくれず実用的で古典的な黒ローファーを選んだ私。折角私服着用の許された高校だったというのに私はあまり冒険しない女の子だった。

淡いブルーやらイエローのカッターシャツ、少し明るい色合いのカーディガン、パーカーにプリーツスカートのmixスタイル……一時期流行ったカラータイツを合わせたりもした。でも結局のところ私の冒険などそんな程度だ。

(そう言えば謎のこだわりがあって、タイツは黒でなく濃いめのチャコールグレーが好みだった。妙なところだけ天邪鬼だったものだ)

 

 

何故ローファーの話をしているかと言うと、今日、1年ぶりに白ローファー靴を履いたからである。買ったものの何となく気が引けてあまり着用しなかったそれを、急に履いてみようという気になったのだ。

ローファーというのはいい。

少し高めの靴底がこつこつと鳴る音も小気味よいし、何より「学校」に合う。勿論、大学だって「学校」の範疇だろう。

 

 

今日気が付いたことだが、私は案外「学校」が好きかもしれない。今日は予定があって12時過ぎに登校し、図書館に寄り、ふたつ講義を受けた。卒業論文の面談があるものだから時間を潰そうと1年ぶりに専攻の共同研究室に寄ってみたり、教授の研究室がずらりと並ぶ研究棟に寄ったりもした。

付け加えるならば今日はひたすら一人で行動した。

鞄に忍ばせた読みかけの小説に当てられてしまったのかもしれないが、そんな気分だったのだ。

そして、じんわりと気が付いた。

ああ、私は「学校」が好きなんだなあと。

誰もが一度は通ったことのあって、ほんの数年ばかりの短い期間、我が物顔で闊歩できる場所。人生のほんのひと時であるはずなのに、強烈な思い出を脳に焼き付けていく時間。多かれ少なかれ個性的な、同年代の学生が集う場──しかもその目的は人それぞれ違い、それ故に起きる確執に日々囚われて生きている──。

 

ヘンな場所だ。

 

でも、ほんのごく短い期間しか、私はここを我が物顔で闊歩できないのだ。五限で使われない学部棟のとある教室を覗き込めば、明かりの落とされた講義室にずらりと並ぶ机と椅子と、誰かが置き忘れたresumeが見えた。たったそれだけのことなのに、どこかセンチメンタルな気持ちにさせられる力があるのだ、この「学校」というやつには。

 

大体このブログを始めたのだって、こんな風に魔が差したように訪れるおセンチな気分を燃やして供養してしまおう──文字にして昇華、消化してしまおうということなんだけれど──と思ったからだ。時折こんな気持ちになるにも関わらず、こんな風に思考回路をそのまま曝け出すことは難しい。もう二十を超えた大人なのだから、いい加減そんな話を出来る相手と出来ない相手がいることくらいわかっているし、こんな話を嬉嬉として聞いてくれる人間は余程の変わり者だということも知っている。ようするに風変わりである種小難しいこんな話を、大手を振って出来る場所が欲しかったのだ。それがこのブログというわけなんだけれど。

 

それはさておき、部活動をしてそれなりに正課をこなし、ちょっと変わったバイトをし、沢山遊んで就活まで終えた私には、最近ふと考える事がある。

それは────私はこれまでいくつもの「選択」をして、ここまで来たのだということ。

もしかしたら就職を辞めて院に進み、研究室や図書館で毎日本に頭を突っ込む人になっていたかもしれない。大学を辞めて専門学校に入り直していたかもしれない。そもそも別の学部にいたかも。いや、部活を辞めていたならきっと公務員になっていただろう。図書館司書になるべく本屋さんや図書館でアルバイトしていたかもしれない。

これまでの4年間を思い出して、ひとつひとつの経験が糸のように繋がって、そしてここにいる「私」が出来上がったことがわかるのだ。

それはとても不思議な感覚で、時たまそれに溺れそうになる。ひとつ歯車が欠けていたら、きっと今の「私」は存在していないのだという気がする。

 

CLAMP先生の『xxxHOLiC』という作品に有名な台詞がある。

──「運命なんて存在しない。あるのは必然だけ」

今まで経験した全ての出来事、これから起こる事、未来、全てが予め決定されているのかもしれない。ジャン・カルヴァンの予定説みたいに。

 

というのも、そういえば、という事があったのだ。

今日は高校時代の友人S子と会う約束をしていた。私はたまたま昨夜から、大好きな作家である荻原規子先生の『樹上のゆりかご』を読み始めた。

1回生の時から度々借りていたのだが、タイミングが合わなくてついぞ手を出せなかった作品だった。あらすじさえ目を通していなかったので、まさかその内容が高校時代の私を想起させるような────あの目まぐるしく、濃密な思い出の数々と人間関係──ものだったとは予想もしていなかったのだ。私は作品を読み進めながら、登場人物にS子を重ねたり、自分自身を重ねたり、はては己の周りにいた個性豊かな友人達を重ね合わせてノスタルジーに浸った。今日これから会う彼女にしか理解してもらえない想いばかりが後から後から沸き起こり、まるで今日の為に用意されたタイミングではないか……と疑ってしまった。もし私が数年前にこの作品を読んでいたなら、まるで違う感想を抱いただろう。

 

そして今夜、一緒にお酒を飲みながら小説の話をして、高校時代の思い出話や私達の将来の話に花を咲かせたのだ。学部もキャンパスも違うS子と私は、何故仲が良いのか分からないくらいにタイプの違う女の子だ。(サバサバした体育会系と一介の陰キャ女と説明すれば分かってもらえるだろうか。)けれども自分の意志をハッキリと持って主張のできる女の子だという点で、私達は気が合うのである。

 

私がかいつまんで説明したあらすじと紹介したいくつかの台詞に、S子自身感じるものがあったらしく、自分の心境と重ね合わせながら語ってくれた。とても有意義な時間を過ごすことができたと思う。

こうした話ができる友人は希少だが、有難いことに私には心当たりが数人いる。まったく友人関係に恵まれているものである。代わりにいついかなるときも一緒、という所謂ズッ友は居ないのだが……居場所がいくつも有るというのは悪くないことではないかと言い訳しておく。別に困っているわけではないしね。

 

さて、『樹上のゆりかご』に関しては個人的に備忘録に残しておきたい台詞や引用が沢山あるため、また別の機会に文に起こしたい。

気が付けばもう3000字近く文字を吐き出しているらしい。流石に今日はこのあたりで筆を置くことにする。