夏海〈創作短編〉
じっとりと内側から込み上げる熱を逃がそうと窓を開けた。少しばかり気だるい夜の匂いと、安っぽいネオンと街灯でぼやけた夜の街。夏の終わりを告げるぬるい風が頬を撫でる。
季節は目まぐるしく「変わる」けれど、夏だけは「終わる」と言うのが好きだった。名残惜しくて、切なくて、意味もなく泣きそうになるこの季節。人生で喩えるなら、丁度今だ。
法律の上では大人になったばかりの、大人見習い。
それとも花火みたいにパッと咲かせる若さだろうか。
薄っぺらいキャミソール越しの風に目を細めながら煙草に火を付けた。春じゃなくて、夏を売る商売だと言い聞かせて、あたしは一体どこまで行けるんだろう。
身体を売るなんて安っぽい真似はしていない。
ただ少し、若さゆえの過ちとやらに加担してあげるだけ。別に、体を重ねることは嫌いじゃないのだから。
「へー、ミナミちゃんてタバコ吸うんだ」
シーツの上で一服やっていた男が意外そうな声を上げた。正直、断りもなく部屋の中で吸うなんて論外だ。そいつは出会い頭に渡した名刺をヒラヒラ振って、あたしの名乗った〝内海 南〟の文字を撫でた。
「これ本名じゃないんでしょ?」
そう言って浮かべたニヤニヤ笑いが下衆っぽくて思わずため息が漏れる。あんたはおっさんかっつーの。だから人影もまばらな道路に向かって煙を吐いて、おざなりな答えを返した。SNSについたリプライくらいに適当なやつ。
「さあね。でも気に入ってる」
「えー、絶対違うでしょ。ねえ本名教えてよ」
「……ヒガシ」
「もー、冗談言っちゃって」
「じゃあキタ?」
あはは、と笑いながら言ってやればそいつはとうとう笑みを消した。大きな舌打ちと一緒に、萎えた、だのふざけやがって、だのテンプレ通りの悪態ばかりが飛び出す。そのまま立ち上がったそいつに向かって、
「じゃーねー、もう会うこともないと思うけど」
とでも言っておく。ついでにお帰りはあちら、と言わんばかりに玄関に向けて手をヒラヒラとさせてやれば、男は大きな足音を立てて出て行った。
(あー……今日はハズレだったな)
早く帰ってくれてせいせいしたというのが本音である。体を重ねれば、言葉を重ねるより余程相手の事がわかると言ったのは先輩だったか友人だったか。ともかく今日の相手はあまり良くなかった。
窓際に置かれた時計を確認する。
──午前3時17分。
このくたびれた街が動き出すまではまだ時間がある。
薄汚れた雑居ビルの立ち並ぶくたびれたこの街を、ベランダの褪せた緑と室外機越しに眺めるのがあたしの日課だった。
太陽が沈む頃に起き出して、夜のニュース番組を流しながら化粧をする。それから酒を一杯とタバコを一本消費して、夜の街に繰り出すのだ。
友人の中には、夜の短い夏が嫌いだという奴もいる。日焼けに暑さに虫に、いい事なんて何もないというのが彼等の言い分だった。
でもあたしは夏が嫌いじゃなかった。
なにしろ夏を売る女だし、夜に閉じ込められて居場所がないというのも、その夜が短いのも、何か運命的なものを感じて仕方がない。
海が一等綺麗なのも、夏だ。
さっきの男によってくしゃくしゃにされた名刺の、〝海〟という文字をなぞる。
「ずっと終わんなきゃいいのにな」
少しぬるくなった缶ビールのプルタブを引く。気の抜けた炭酸のそれは、夏の海の味がした。
了
『 夏海 』
2019.02 台湾旅行の記憶に寄せて